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理念 高級・普遍・稀少

理念

企業は、人が人として生きるためのすべてに関わる存在である。
人が生存し続けるための生産活動を担うのみならず、
人が人として生きる上で、目指すべき姿を追求する場でもある。

人がいつの世でも憧れ、自らもそうありたいと望んできた姿がある。
潔く、爽やか、かつ凛然。 純粋で、したたか、かつ明哲。

これらの姿、すなわち「人の高さ」は、次代への先見から生まれる使命感となり、人々を導く力を持つ。【高級】
そして、時代の表層を成す潮流の奥にある、社会発展の原理に則った真実の流れを見出し、実現する。【普遍】
その流れを先覚・先駆・先導する存在は、常に時代の先に立ち続ける。【稀少】

オースビーの経営理念は「高級 普遍 稀少」。
この理念の背景には、「人類社会はいかに発展するか、その発展において企業は本来何を為すべきか」という根本的な問いに基づく、オースビーの社会科学的思想がある。

1.現代企業の本来的役割

現代企業の役割とは何か。
社会では漠然と、「経済活動によって、働く人々をより経済的に豊かにすること」「生産活動によって、社会の人々をより物質的に豊かに便利にしていくこと」、それが企業の役割であると思われている。そしてこれまで企業はその役割を、様々な問題を引き起こしながらも一応果たしてきたと思われており、今後もその役割を期待されている。

だが本当だろうか。確かに全ての企業は経済活動と生産活動に特化していく傾向を持っている(企業の特化性向)。しかし、企業は本当に経済と生産に特化した存在でよいのか。本来の企業の役割とは何だろうか。

「企業は経済活動・生産活動だけに特化しているのではない」という見方もあろう。例えば「産学協同での研究」「文化事業への後援活動」などの「知に関わる活動」も行ってはいる。しかしそういった活動も、中長期的には自社の経済活動・生産活動への貢献が意図されており、純然たる知的活動ではない。では、企業には純然たる知的活動が本来的には求められていないのだろうか。

企業には本来、自ずと向かっていく方向がある。人は生きていくためにまず、経済的・物質的豊かさを求めるが、経済的・物質的豊かさが充足されていくにつれ、精神的豊かさも求めるようになるものである。元来企業は、人々がその人生の大半を生きる社会的な場として、人々にとって経済的・物質的豊かさだけでなく、精神的な豊かさをもたらそうとする性向を持った存在である(企業の一般化性向)。
どの企業も一般化性向を持っているが、どの企業もその方向に本格的には向かっていない。向かってはいないが、社会の表層の動きの中に予兆的動きはある。

人の精神活動には、社会現象としての観点から、
 ・信仰(宗教)的方面
 ・文化的方面
 ・知性的(学究的、科学的)方面
の3つの領域がある。

企業が一般化性向を実現しようとする予兆として、企業活動の中に信仰(宗教)的方面や文化的方面の動きが見える場合がある。例えば、宗教団体が設立した企業の活動が社会問題となることや、自社の事業とは直接関係のない芸術やスポーツを支援するなどの動きである。これらの事象は、「企業は人の精神活動を充実させねばならない」という本来の役割の、現代的な予兆の顕れではあるが、その活動は生産活動の中で生産活動に密着・連関した活動として考えられ、実行されていないため、その活動は大変表層的であり、一過性のものになってしまう。

どの精神活動の領域も、人類社会にとって重要なものである。その中で今企業が取り組まねばならない活動は、知性的(学究的、科学的)方面である。なぜなら、人は学問をすることで思考力や探求心という、現実世界を解明する力(形而下追求の力)が身につく。この力があることで、より形而上的な精神活動の方面(信仰的、文化的)への探求も、道を誤らずにより高みへと向かえる。
現実世界を解明する力が低いと、様々な現象や心の働きの実体に迫ることができない。「先行き不透明」といった決まり文句で片づけてしまうような、低次の精神活動にとどまってしまう。また古代から現代に至るまでずっと、皆望んでいないにもかかわらず、国家間・人種間・階級間での「憎悪」や「差別」が、形を変えながらも絶えることがない。これらの事態を無くしていくには、科学的な現実世界の解明を通した人類知の進歩が欠かせない。

企業は人が生きるための全てを実現する存在を目指すべきである。経済活動・生産活動だけでなく、あらゆる精神活動を実現する場になっていかねばならない。まず、知性的方面での精神活動を、生産活動に密着・連関した活動として、かつ経済活動・生産活動の手段としてではなく、実践する。それによって現実認識をより広げ深め、将来的には信仰的方面(=より高い道徳や良心を追求する方向)や、文化的方面(=より高い感性や美意識を育む方向)にも向かうべきである。

このように、企業が本来の役割である「人が生きるための全てを実現しようとする」ことは「高級」であり、企業という社会的存在の「普遍」性の追求であり、目覚める企業は「稀少」な存在となる。

2.企業を先導する力
( 知のリーダーシップ )

オースビーは企業を本来の姿に向かわせる。あらゆる企業が経済活動・生産活動の追求とともに、精神活動の追求も実現できるよう先導する。(「生産活動と精神活動の同時追求の先導」)
現代社会でオースビーは、あらゆる企業をまず知性的方面の精神活動で先導する、つまり「知のリーダーシップ」を発揮する。
知のリーダーシップとは何か。そもそもリーダーシップの本質は何か。人々は、社会は、いかに導かれるべきか。

古来リーダーシップは、「武の世界の統率」の中にその典型や理想を見出されてきた。時代が進むにつれ「武的な性質」だけではなく「文的な性質」も求められるようになり、リーダーには「文武両道」が必須とされるようになった。
現代は武力ではなく文力で物事を解決していこうとする社会であり、文的世界でのリーダーシップにはより「知」が求められる。現代では「専制的リーダーシップ」と「民主的リーダーシップ」がリーダーシップの典型とされている。人々は専制的リーダーシップには、一人の知性で全てが決まってしまう怖さを持っている。かつ過去の独裁・圧政の経験の反動もあり、専制は忌避されている。今は民主的リーダーシップがより好まれる社会であり、「人の話をよく聞く」「調整ごとが上手」といった民主的と思われる動きが、知的なリーダーシップの発揮であるかのように思われている。だが、実際にはそれでは肝心な物事は全く進まないため、結局は「声の大きい人が勝つ」といった武の世界風のパワー行使に従ってしまう。

リーダーシップの本質は、形の上での専制か民主かということにあるのではない。リーダーシップとは「誰も答えの分からない中で、行くべき道に人々を導く力」である。その本質は「危機感の強さ」にある。専制の本当の意味は、強い危機感を持った人に皆が導かれるという社会の知恵であり、民主の本当の意味は、様々な人々の情報をもとに危機をより早く察知しようとする社会の知恵である。

危機感とは、時を先取りする者だけが持てる未来確信である。多くの人の知性が「現在」に埋没している中で、「未来」に自分から危機を感じ、絶対にその危機に打ち克とうとする心から、リーダーシップが発揮される。つまり危機感は「時間概念」と密接な関係にあり、知の先導は「時間概念」によってその力が決まるものである。

自ら危機感を持ち人々を導こうとするリーダーのあり方は「高級」であり、「普遍」的なリーダーシップの発揮であり、ほぼ全ての人が行わない「稀少」な行動である。

3.全ての根源=“時”の獲得

人はどのように時間の概念を持つようになったのだろうか。
そもそも“時の生命的意味”は何か。原初的な生命体から進化する過程で、動物は“未来”を持つようになった。神経細胞を持ち脳が発達するようになってから、過去の記憶が保持・再生できるようになり、同時に未来を持つこともできるようになった。過去の集積によって未来の集積が、脳の中に生み出されるのである。

過去の記憶によって敵から逃げることは、一瞬の「未来の先取り」であり、動物の原初的な未来感である。人類と動物は全く異なる生態をしており、また、現代の人々を取り巻く社会環境・システムは昔の人類のそれとは大きく異なるが、個体の行動は昔の人も現代人も、動物としての原初的な未来感に基づいている。社会は進歩しても人の個体としての未来感は、実はあまり拡充できていない。例えば我々は皆、命に関わる物理的危機が迫っているときですら、適切な回避行動をとれないことが多い。現代人個々人の未来予見力はまだまだ未熟なのである。

その未熟な未来予見力しか持っていない人類は、社会発展の過程において後天的・社会的に時間概念を獲得し、拡充していった。個体として未来予見力の未熟な人類が発展し続けている根源が、この“時の獲得の歴史”にある。

ほぼ動物的本能に近い「反射的な一瞬の時間」しか持っていなかった人類は、やがて言葉を持つようになり「漠然とした少し前・後、昨日・今日・明日といった短期的時間」を持つようになった。そして、特に文字の発明を契機として「年・代・期といった社会存続を意識できる長期的時間」を得て、現代は「宇宙や人類史の想像や解明をもたらすような無限・永遠の時間」を持てるようになった。

“時の獲得”は学問の進歩と同時に進行し、かつ相互に影響し合い進展してきた。“時”の概念が長くなることによってあらゆる学問の探求範囲が広がり、学問の探求範囲の広がりが“時”の概念をより長くしていった。例えば人々が「年・月・日」という概念を持つことと、天体に関する学問が進むことは、同時的かつ相互因果的に進んでいったはずである。

人類の進歩の全ての根源が、“時の獲得”である。我々は何を為すにも宇宙の“時間”と“空間”の制約の中で、事を為さねばならない。人類は時間と空間の制約への対応力(コントロール力)を次々と高めてきたのであるが、空間概念も時間概念があって初めて持てるものである。過去から未来への時間の連続性が認識でき、たとえ一瞬であっても時間の長さが認識できる脳でなければ、空間は概念化できない。時間概念を広げることで空間概念も広がり、知の進歩も生み、宇宙の制約を少しずつコントロールするようになっていったことで、人類は進歩し続けてきた。

このような思想、いわば「時の哲理」は、人類をより「高級」な存在に導く原理であり、今後の社会にも適用される「普遍」の真実であり、一般にはほぼ意識されない「稀少」な社会科学的認識である。

4.現代人の人類史的責任

現代の人類の時間概念は無限・永遠にまで広がり、人類は宇宙史的視点・人類史的視点での未来と理想を持ち、その実現に向かう存在となった。現代人の歴史的責任は昔の人が持てなかった未来・理想を持ち、人類をより知性的に発展させることである。

例えば歴史上かなり文化・文明が進んでいた中世においても、当時の人は21世紀の人々が描く未来や理想が持てるような時間概念は持っていなかった。当時は日々の食糧獲得への危機意識がほぼ全ての人の日常心理の多くを占めており、数年・数十年、ましてや人類の未来といったレベルでの時間概念を持てる精神的余地はなかったのである。

人類は現代に至り、歴史上初めて人類としての未来や理想を持てるようになった。現代資本主義社会における“時”の獲得の意味は、歴史上最も生産力が高い時代であり、多くの人々が物質的に豊かな生活を送れるようになった今、日々の食糧獲得への危機意識が(一見)遠のいた今、人類の未来・理想を描きそこに向かうべき時代である、ということである。“時を得た者の責任”がある、ということである。

この責任を主体的に果たすべき存在が、企業である。企業には現代社会における生産主体として、「生産活動と精神活動の同時追求」を実現し、企業活動そのものが未来の理想へと向かう活動になることが求められている。

このような人類史的観点で自らの責任を担う姿勢は「高級」であり、「普遍」的な歴史認識に根差す信念であり、人類の歴史で「稀少」な時代である現代人の使命である。

5.組織脳と組織記憶

企業がこの人類史的責任を果たすためにすべきことの中核行動は、「組織の改革」である。企業は組織として常に未来と理想を描き、組織として自ら危機感を持って事を実行せねばならない。しかし、そのためには根本的な問題に手を打たねばならない。

根本的な問題とは、最も大事な「時間概念」を組織で持つことが大変困難である、ということである。困難な理由は、組織は個人と異なり物理的な神経系統や脳を持っていないことである。つまり組織には過去の集積から未来を生むための「情報伝達や情報処理の場」が元々備わっていない。そのため組織では、あたかも人の脳のように情報が共有されたり統合されるような組織編制を考えたり、情報システムやAIに代表される情報に関わる仕組みを導入したり、事あるごとに「コミュニケーション」が問題にされたりしてきた。どのような方法であれ、組織で働く人々の「中」や「間」に、組織としての記憶の集積ができるような“組織脳と組織記憶”が絶対的に必要となる。

多くの組織の一番の問題は、危機感が持てないことである。その原因は、“組織脳と組織記憶”づくりがほぼ全くできず、組織が未来予見体として機能しないことである。これまで述べてきた人類史的責任を企業が果たすためには、「時の概念を獲得・拡充する」「そのための組織脳・組織記憶を生み出し機能させる」という根本的な企業変革を実行しなければならない。

「個体脳の可能性を大きく超える組織の脳」をつくることは、人類をより「高級」な知性に導くことであり、人が組織を組み始めてからずっと摸索してきた「普遍」的なテーマであり、大変困難であるが大変実行可能性も高いという「稀少」性を持った、次代の創生である。

オースビーは人類が高みへ向かうために最もしなければならないことを為す。
現代においてそれは、企業組織を「生産活動と精神活動の同時追求」に導くことである。
オースビーは、企業組織の時間概念の広がりと知の進歩、そして強い危機感を自ら発する組織脳・組織記憶の創出を実現し、人類を知性的発展に向かわせる先導企業である。


オースビーの経営理念は「高級 普遍 稀少」。
この理念は、

人類の高みへ向かう歩みを、
【高級】
普遍的な人類発展の原理に則り先導する、
【普遍】
唯一先進的な覚醒企業たらんとする、
【稀少】

企業経営のおもいである。