Conscientia

自覚への階梯

本稿はオースビーが刊行した「Conscientia[自覚] 可能性の跳躍者たれ」の一部(P.24-P26)を抜粋して掲載する。

組織にこそ個人の価値がある

それでは、後の世代に引き継ぐべき価値観を、継承していく主体は一体誰か。それは、自律的に存続をかけて日々生産活動を行っている諸組織、つまり現代社会における企業組織である。

これまで組織は、より効率的、大規模に生産活動を行い、生存確率を高めるためのツールとして語られてきた。しかし、新時代の人が人らしく生きるための立脚点を、より良い生産活動とその価値観の継承に置く以上、考え方を変える必要がある。 組織は機能発揮のために組まれているのではなく、価値観を内包し、継承していくために組織がある、というパラダイムである。つまり、組織の価値観こそが継承すべきものであり、その継承のために、組織の存続が必要となり、そのために機能発揮しなければならない、ということである。

そういった組織に所属してこそ、個人の自由も、意志も、人生の意味もつくられていく。個人と組織を対立させているうちは、人は決して真に人らしい生産活動を実現できない。また、組織のための個人、逆に個人のための組織、といったいずれかの従属を前提とした枠組みも、組織の価値と個の人生の意味を薄めてしまう。組織が持つ価値観、そこに“公”を感じ、その実現と継承に自発的に邁進することで、個人が意志的自由を獲得し、同時に人生の意味を感じられる。そんな組織のあり方が求められる。それでは、どんな組織が人らしさの体現主体であり、継承すべき価値観を内包する舞台としてふさわしいのか。 かつては人が身体感覚的、生活感覚的に意識し得る範囲と、実際に当事者として関与し得る範囲は近似していた。農民にとっての“世界”は自らが耕す耕作地とその周辺であり、職人にとってはその工房と製品を卸す相手であった。今やメディアの発達と生産・消費活動の高度化によって、人の生活範囲には様々な情報と物資が、自分の生活範囲外から流れ込んでくる。それらの出元一つひとつに対して、人が当事者的に関わることなど不可能である。繋がりはあるが、関与は一方通行的であることに慣らされた今、人の生活の中で実感的に意味を捉えられる割合は極度に下がっている。これは言わば「世界が自分の世界ではない」という状態である。人が自分の人生の意味をつくっていく際に、こういった「もはや意味を理解し得ない」、「意味を考えなくとも自動的に生活が進んでいく」という状況に慣れていくことは、人の“人らしさ”をじわじわと侵食していく。

では、どうするべきか。

“人類”、“国際社会”といった漠たるものではなく、自らの生活の中で、身体感覚・生活感覚を伴い、自律的、当事者的に関与し続けられる生産組織、つまり企業組織こそが、人が価値・意味を体現し、継承していく主体となる所以がここにある。人は自ら所属する生産組織の中に価値をつくり、その価値実現に向かって活動することによって、人らしさを体現・継承していくことができ、かつ自分の人生の意味をつくりあげていくことができる。今、人はそんな生産組織の実現を図る場所にいる。

企業はその企業がその企業の“あるべき姿”を
追求するためにこそ存在している

こういった生産組織の実現を図る上で立脚すべき考え方は、次のようになる。すなわち、

企業組織は生産活動によって財を産み出すために存在するのではない。
その企業がその企業の“あるべき姿”を追求するためにこそ存在している。

生産活動によって財を産み出し、対価を得、存続を図っていくのは、企業組織の目的である“あるべき姿”を追求するための、二義的目的である、ということである。ましてや、株主のために存在する、という企業組織の目的解釈は、「資本の拠出者がビジネスの所有者・ 主体者である」という余りにモノ的な考え方であり、もはやその考え方のもとでは、人の尊厳は描けない。

考えてみれば、世の中に替えの利かない組織など、実は一つもない。どんな企業が倒産しようと、どんな組織が存続を許されなくなろうと、翌日以降も人々の生活は続いていき、その組織の役割を他の組織が補ったり取って代わったりするだけのことである。その組織が存続しなければならない理由は、実はその事業内容にあるのでも、その社会的役割にあるのでもない。その組織に所属する人が、その組織のあり方に価値があるという想い、そしてそれを連綿と継承していきたいという、この人間らしい想い、そこにしか、その組織が存続しなければいけない理由など存在しない。

生存のために人がいるのではないのと同様に、存続のために企業があるのでもない。大切なのは、「いかに存在するか」であり、ゆえに、「本来あるべき姿」を全ての組織は追求しなければならない。

自分一人では成し遂げられぬほどの理想に
人生を使ってこそ意味がある

さらに、組織において継承活動を行うことが、人の人生にもたらす意味について、もう少し触れておきたい。

理想を実現するには人生は短すぎる。人の一生はたかだか80年程度である。自分一代で社会に対して行える貢献など、高が知れている。一方で、人が社会について考える“理想”はどこまでも広がる可能性を持っている。その大きさ、高さに対し、我々の人生は余りに短い。ならば、その理想の高さの実現に向けて生きる中で得た「こうあるべき」という価値感は、後世に継承しなければならない。「自分一代では到底達成できない」ほどのことに想いを馳せ、そこに自分の人生を投じようとするのは、人にしか為し得ない生き方であろう。ゆえに、人は組織に所属し、継承しなければならない。せっかくの思考を、せっかくの理想を消してしまわぬように、人は継承を行うものである。

ここまで、生産・統治・継承におけるパラダイムシフトを見てきた。

大事なことは、考え方を変えることである。パラダイムを変えてみれば現実は違った姿を我々の目の前に示す。人らしさの喪失の危機に瀕し、もはや未来に可能性を見出せないかのように思えるが、そうではない。時代には閉塞感があるだけであって、閉塞している訳ではない。

今ある枠の外を信じれば良い。パラダイムシフトの先を信じれば良い。 人の可能性を信じるところから、未来は始まる。可能性は生まれる。

では、このようなパラダイムシフトを先導し、実現していくのは誰の役目なのか。 その使命を帯びた情報産業と、その活動のあり方を第三章で展開する。