Authenticity & Universality
Succeeding by Business-Engineering

Conscientia

自覚への階梯

本稿はオースビーが刊行した「Conscientia[自覚] 可能性の跳躍者たれ」の一部(P.18-P20)を抜粋して掲載する。

生産活動のパラダイムシフト

現代は企業化社会である。すなわち、社会のあらゆる組織が、企業と同様に、経済的な自立を求められ、その活動において付加価値生産を求められる。従って、現代において、より人らしい世の中の実現に向けて社会を先導するのは、政治でも学問でもなく、ビジネスである。そして、そのビジネスの牽引者であり、生産主体である企業組織のあり方・進み方にこそ、次代を切り開く可能性がある。
では、企業はどのようにして生産活動の中に人らしさをつくっていけば良いのか?

Paradigm Shift①

企業の社会的責任は労働観の確立と継承である

生産活動の主役たる企業に、今、求められることは何だろうか。昨今、企業の社会貢献活動が取り沙汰されるが、そもそも、企業の基本的な社会的責任は生産・雇用・納税であり、「事業で社会貢献をする」・「雇用を守る」のは当然のことである。何も声高に言うことではない。そもそも社会に貢献しない事業は、事業とは呼べない。とは言え、今の社会が置かれた現状を考えると、企業は基本的な社会的責任だけを果たしていれば良い訳ではない。生産活動の虚無化が進む現代において、企業が果たすべき社会的責任は、人がより意味を感じて働くことができるような労働観の確立とその継承である。より人らしく、きちんと働く文化を、働くことが人生の意味に繋がる文化を打ち立てなければならない。しかし、現実はまったくの逆に進んでいる。働く意味が薄まる文化、そして人が自身の持つ資源をより投下しなくなる方向性、つまり“働かない文化”をつくってしまっている。 では、どのような労働観を確立・継承すべきなのか?

Paradigm Shift②

人はより働くべきである

今の世の中には、豊かさの中、自分で何とかしなくとも誰かが何とかしてくれるという錯覚がある。日々の生存に困る厳しさが遠ざかったところに甘えが生じ、生きることの切実さや生きられることへの謙虚さがなく、生かされている意識のない人々で溢れている。その結果、現代は、人が「働かない社会」「働きたくない社会」になっている。あるいは、「働かなくても済むと思いたがる社会」と言っても良い。しかし、人は本質的に意味や目的を求める存在であり、より意味のある働き方をしたい、という思いを持っている。そもそも、働くことは苦役ではない。苦役と思うのは、“人”という資源を時間的・身体的な労働力としてしか捉えていないからであり、そう考える人は、より働く方向ではなく、より働かなくする方向へとヒステリックに騒ぎ立てる。人の中にある“総合的な知識や教養、感情や感性”という資源を活用する方向で考えれば、人の人らしさの追求と「より働くこと」は見事にマッチする。身体的・時間的に労力を増大させよ、と言っているのではない。人的・知的・精神的な資源を今よりも動員することで、むしろ身体的・時間的に“不毛な資源投下”は大幅に減らせる。不毛な資源投下は人の人らしさを段損する。問題は、その人的・知的・精神的な資源の動員方法があまりに拙い、ということである。そこで、人の資源をより動員していくために、次のような考え方を提示したい。

Paradigm Shift③

人はより仕事を難しくしなければならない

これまでは近代科学的アプローチのもと、人は複雑で難しい仕事を、単純で簡単な仕事の集まりへと分解してきた。それにより生産力の爆発的向上を成し遂げたのも確かだが、一方で、それは複雑な現実を捨象したに過ぎず、本当は難しい仕事を簡単なものに置き換えただけである。こうして生産活動の意味をすり減らしてもきた。今からどんな商品を市場に投入すべきか、どの分野に投資すべきか、誰をどんな仕事に就けるべきか、…。本来難しい判断を伴う仕事を、人は外的な理論や確率論に委ねて、人から引き剥がしてきた。また、社会のできる限り多くの人が行えるように、仕事は簡単なものにしなければならないと暗黙裡に考えてきた。

これからは、仕事を、関わる要素を限定して簡単にするのではなく、できるだけ現実そのままに、より難しい仕事にしなければならない。論理的に明快でない問題にも取り組むことができることこそ、人と機械の違いである。本当に難しい仕事にこそ、人が行う価値があり、そこに人が本来持つ様々な資源を投入できる可能性がある。そうしてこそ、人は活き活きと働ける。人の活動には常に矛盾が伴うものであり、因果で言い表せないことばかりが立ち現れる。その難しさから逃げていたのでは、人の可能性は開けない。そこで、人の可能性をより開花させていくために、資本主義が立脚している原理に迫ってみる。

Paradigm Shift④

売れるものを売るのではなく、
売るべきものを売らなければならない

物的資本をもとに生産活動を行い、そこから生まれた余剰を、次の生産活動に投下する、という拡大再生産のメカニズムで資本主義は拡大してきた。そのサイクルが今や、微細な差異化にばかりエネルギーを使う、不毛な拡大戦・耐久戦の様相を呈している。つまるところ、売れるかどうか、というだけの理由であらゆるものごとが商品化され市場に投下される。実体の有無や、人がどう価値を評価するのか、はそこではもはや無関係である。市場が冷徹に、オートマティックに、 需給と価格の調整を行い続ける。価格の根源は人の商品への期待や失望であり、市場が示す価格を前に、期待が期待を生み、失望が失望を生む。そうしてバブルと恐慌は繰り返されてきた。もともとは自らがつくった道具に過ぎない市場に人は踊らされ続けてきた。これからは市場に支配されるのではなく、意志的・確定的にビジネスを行う世の中にしたい。“売れるもの”ではなく、“本当に価値があり、売るべきもの”を人が意志的に生産・消費する社会にしたい。そのような人の知そのものを、資本として生産活動を行い、それを通じて得られた知が、次の生産活動に繋がり、より良い生産に寄与していく。そんな、知の拡大再生産、“知資本主義”を実現すべき時である。

煩悩と美徳の同時追求

これらの生産活動のパラダイムシフトに通底する考え方、それは、

生産活動の価値は、生産活動の結果生み出されるものではない。
生産活動のあり方そのものが、追求すべき価値である。

ということである。経済は、人の欲求によって発展してきた。従って人の煩悩を否定するものではない。一方で、美徳なき煩悩の追求は、人を獣にする。煩悩だけ満たしても人は人にはなれない。欲望の充足と真理の追求の両立は難しいことかもしれない。矛盾することかもしれない。しかし、矛盾を内包してなお同時追求をしていけるのが人の知性である。欲望を包容しつつ、自由を体現しつつ、しかし自由人ゆえに持つべき自制という真理・美徳を、生産活動の中で人は習得しなければならない。では、どんな生産活動のあり方が“人らしさ”に値する“あり方”だろうか。それは、決して目新しいものではない。誰もが「本来そうあるべき」と思う姿である。例えば、人が生産活動を通じて日々成長し、一つひとつの行為に意味を感じ、自分の存在の確かさを感じ、周囲との繋がりを強くし続け、誇りと責任を感じ、清々しく過ごせる、 …。そんな姿が「本来あるべき」生産活動である。